036.Shadow Run:16_/C





 ベディヴィアとザノンの決闘は、
シール領の責任に帰する、始終一切を地方が管理する決闘として正式に認められた。

 紺の防護服に身を包んだザノンと、緑の防護服に身を包んだベディヴィアは向かい合う。

 向かい合った二人の間合いは、大きく離れている。
大またに歩いて、十歩は有ろうかと言う間合いで二人は静かに視線を交わしあい
無言のままで、剣を、抜く。

 ザノンは右足を半歩前に出してから、ゆっくりと剣の先を揺らめかせて構えを探す。

最初に彼は刀身を傾けて下げて、下段構えを作ろうとする動きを見せ、
そこから音も無く剣を持ち上げ
剣を正眼につける。
そこから彼は、なおも再び剣を持ち上げて、
上段の構えを作ろうとしてみせてから、やはり、と思い直したか
剣を下げて再び正眼に構え、ひたと剣の動きを止める。

 一連の動きの中にあって、しかし、その瞳のつくる
貫き通す鋭い視線はぴたりとベディヴィアの人中を穿っている。

 微風が、ベディヴィアの腰に届きそうな束ねた長髪を撫でる。
 ベディヴィアは下段に構えた剣を揺るがせもせずに、
しかしその瞳はザノンの剣を注意深く追い、
ザノンの剣が止まってからは
彼の、ベディヴィアよりも二回りも
小さな体より生ずる微かな兆候を捉えんと緩やかに動き回る。

 それを向けられたものに命を賭ける事を求める、
刃の鋭い光が世界を切り開いて、眼に見えぬ世界が現れる。
それを向ける者と、向けられる者同士の世界。
倫理、律法、そして情愛からの隔絶が起こり、
やがて、その隔絶と忘却の光の路を通った彼らの世界は刃の光に収束し、
再構成され、異世界の律法がその異形を顕す。
かくて闘争の契約は成立し
その契約の当事者たるザノンとベディヴィアの二人は
彼らの命という行為の向こうになにものかを見ようとする。
見せようとする。

 そして彼らは、言葉で構成出来ぬ、彼らのうちなる神の声を聞く。

 囁くは如何なる悪神か、はたまた狂神か。

 二人は、剣を挟んで二人だけの世界に潜る。
そこに居並ぶ人々は彼らの世界から融け、消え落ちて影に沈む。

 腕を組んで見守るアレキサンダーの肘をガーハートががしと掴む。
ザノンの体躯がゆらりと揺れて、正眼に構えた剣の切っ先が天に駆け上がる。
その軌道が頂点に達するときには、ザノンの爆ぜるような踏み込みがそこに現れていた。
アレキサンダーは腕を振って、何事かわめくガーハートの掌握を振りほどくと眼を見開く。
その視線は二人の挙動に釘付けになったままである。

 ベディヴィアにも、向かいあうザノンを侮る眼はない。
先ほどバッソウが見せていた機動と、
今、彼が見せていたその正眼構えの立ち姿をベディヴィアはその眼で捉えていたのだ。

 ザノンの一刀を、ベディヴィアは剣を横合いから払って叩き落し、鉄の打ち合う音が鳴り渡る。
一撃をいなしたベディヴィアの腕は、じりと痺れて、ザノンの剣はその矮小な体躯からは想像を超える
迅い剣が走るのを認めた。

 ザノンの剣がぐるりと巡って、ベディヴィアの剣が正面に戻るところを狙って鋭く走ると見えた。

 (育ちがいいだけの子供に後れを取るわけにいくものか)

 焚と息を吐き出し、ベディヴィアが剣の鍔でこの刺撃を受ける。
ザノンの剣のエッジが鍔の上をいくらか滑って、ギイと言う悲鳴と共に火花を散らす。
ザノンが、次の動きを見せる前にベディヴィアはザノンに優る体格と腕力を生かし、
剣の柄をぐいと押してザノンの体勢を崩しにかかるが、
ザノンはそれを見越して軸足を踏みかえ、剣を払ってその勢いを流し、殺すと後ろに小さく跳ぶ。
間合いを取ったザノンの頭上から、
湿った大気を裂くような気合を発して、ベディヴィアが剣を振り下ろす、
ザノンは己の剣の届かぬ間合いであるのを悟って
ベディヴィアの太刀筋の外側に一歩を踏み込んでこれをやり過ごし、
背にしたベディヴィアの太刀筋に交差させるように
ベディヴィアの首筋目掛けて剣を払う。

 振り下ろした剣を戻すのは間に合うまいとベディヴィアは右肩を持ち上げ、
剣はベディヴィアの防護服の薄い装甲を凹ませて、ベディヴィアの肩に食い込んだ。

 加速した鉱物が、ザノンの暴力によって、
己の肉体に軌跡を刻む痛みを感じながらベディヴィアは
強引に剣を戻し、払ってザノンを懐から追い払う。

 攻め手に転じたベディヴィアが、力任せに連撃をザノンに繰り出すが
ザノンは受けることもせずに、体捌きだけでこれをかわしていく。

 攻めては居るものの、ベディヴィアが劣勢か。
体格、腕力、リーチの差は有れど、剣の扱いに於いて
ザノンにはそれを物ともせぬ技量があると見えた。

 ベディヴィアの叩きつけるような剣撃を嫌って
大事を取って
彼の射程から飛び退いたザノンは再び剣を正眼の構えに戻し、
冷徹な暴力に彩られた視線でベディヴィアを穿つ。

 己の無能を晒したのを自覚して、しかし、その逆境にベディヴィアの唇の端が歪んで、笑いが漏れる。

 ザノンも、誰にも媚びぬ覚悟を発露するその笑みを見て、グツと唇を歪ませる。

 「あれは、ザノン君…」

 アッシュは身を乗り出し、ネルとリブラは思わず眼を見開いて半歩下がる、

 彼らの持つ、ザノンの姿が変質する。
彼らの知る柔和で温厚な彼は、今そこでは影となっていた。

 アイギスの胎内で吼え、ルサンチマンを数多屠り去った
ザノンのあの一面の貌を知るものは、レオンやヘキサ、ヒサノと指折り数えられるほどに少ない。

 秘して漏らさず。
己の影を見せず、律し、
他人との壁を厳かに守っていた故が、孤独であったのも彼の一面ではあると言えよう。

 「私、馬鹿だ…」

 戸惑うアッシュとリブラは、ネルの呟きに意識を繋ぎとめられ、ネルを振り向く。

 「あれも、ザノン君なんだ。
みんなに優しいザノン君のこと以外、
誰も、何も知ろうとしていなかったから…あんなに喜んでいるんだよ…」

 「喜んでいる…あれが…いや、そうか…」

 ネルの慧眼はリブラに言葉を呟かせる。

同級のものにも敬語を使うザノンの真実。
本心に近い意思を表現していると、
今のザノンの姿はリブラの眼には感じられる。
今、ザノンは自らを抑圧するものから──。

 「…うん、自由になれてね」

 リブラの思考の結論と、ネルの答える声が奇しくも同時に重なる。

 「…自由…?」

 一歩を踏み出して、二人を見守る姿勢を見せたネルの言葉に、アッシュが問いを発する。

 「何?」

 「あれが、あいつの自由。
あいつは…自由な自分と、普段の自分だったら、
自由な自分の方が大事だろうか…?
俺たちの傍にいた自分と、自由な自分と…あいつは…」

 「…」

 ネルが顔を伏せて唇をぎゅうと結ぶ。
赤い瞳が震える。
アッシュの問いに、ネルは、答えることが出来なかった。

 彼を見守る級友達や、ガーハートの知らない恐ろしいザノンの影が有り
彼らはその影に戦慄を想起させられていた。

 学生達の傍で、顎に手を当てて見物を決め込んでいたマルコが腕を組んでフムウと嘆息する。

 「あれがあの少年なんだな」

 フッと声を上げて、ボークリフが笑う。

 「いいんじゃないの?正直でさ。
相手が誰でも、あそこまでむき出しにして見せるやつは中々いないぜ」

 「なんでか、あの少年を見ていると、エクスを思い出すな」

 「エクスは逆だろ。自分の事なんか言いはしない。
しかし…似てるかもね。何処が、とは言えないけど。なんか、判るわ。
エクスの素質があるとでも言うのかね」

 「真似は嫌いだってよ」

 「他に言い様ないっしょ?
あいつの言う様に、あいつがそれを発明できれば別だけどね」

 ハハッとマルコが肩を揺すって笑いを漏らし、
マルコの呟きにいくらか声を細くしたボークリフは、眼も細める。

 その眼は、ザノンとベディヴィアの行為を見落とすまいとする注視の表れであったろうか。

 ベディヴィアは、ザノンの表情の中に潜む凄まじい気配と、
焼ける様な肩の痛みに打たれ、それに飲み込まれまいと踏み止まる彼の心は
剣の構えを上段構えに変えさせる。

 高々と構えた剣が、右肩の痛みで震える。

眉に皺を寄せて、ベディヴィアは長々と息を吐いた。

 吐いたと同時に感じられたザノンの初動に合わせて、ベディヴィアは剣を振り下ろす。
ベディヴィアの剣が際どい軌道を走るが、ザノンは上体を捻って辛うじてこれを避けると
自分の手にした剣をコンパクトに振りぬいて、今度はベディヴィアの左腕に沿って剣の先端を滑らせて
肘まで届くような長い切創を負わせ、
続けて、踏み出した右足の大腿部に斬撃を繰り出し、振り抜いて
深い傷を負わせる。

 鋭い痛みにウウッとベディヴィアがうめき声を漏らし、
奥歯を噛み締め、彼の腕から剣の切っ先と傷に導かれ血が迸る。

 ベディヴィアの脳裏を影が駆け抜ける。

 (技量では叶わない)

 負ける──想像が、言葉となってベディヴィアの意識の上に溢れる。

 ザノンの下瞼が持ち上がり、ベディヴィアに問う。

 (お前の誰かはつみびとか)

 (否)

 その声を、ベディヴィアは意識の中で否定する。

しかし、その声はベディヴィアの答えを追及する。

 (言葉で違うといっても、何にもならない。
行為の結果が決めるのだ。それは。
投げ捨てるのを止めたのだろう。
何にもならないのだから。
さぁ、もう一歩だ。
誇りの為に、お前の誇りを穢せ)

 その、ベディヴィアの脳裏に響く声は、
ザノンの声に姿を借りた彼の妄想であったのだろうか。

 ベディヴィアの脳裏に、グーヴァインと緑の騎士団の騎士たちの過日の思い出が鮮やかに蘇り
…アルバや、ドーリ、エステルやエスター、シャングリラの人々の姿がそれを塗り替える。

 アルバの、茶色い髪の毛と見上げる視線が。回想の中で彼を再び見上げる。

 今、彼の中で彼を呼んでいるのは、
彼の中のエドワード・グーヴァインではない事を、ベディヴィアは自覚する。

 (──そう、もぎ取れ、お前の、今燃えている生命の火で。
この少年と、彼らに証明を出来るものを、お前はそれしか持っていない)

 しかし、内なるその声は確かに、ベディヴィアの中の何かを覚醒させた。

 ベディヴィアは、剣撃の体捌きのまま、剣を投げ捨てていた。

 ベディヴィアの爪先が、雨を吸って泥となった足元の地面を蹴り上げる。

 泥が飛散し、それはベディヴィアとの間合いから離脱しようとしていた
ザノンの視界を襲い、その泥に眼を打たれたザノンは思わず顔を背けてバランスを崩す。

 右足を浮かせたザノンの右眼から鈍い痛みが突き抜けて、火花が散る。

 ベディヴィアは剣と引き換えに、腕をしならせて振り出した裏拳でザノンを捉えたのだ。

 飛び退こうというところに目潰しと強烈な拳打を浴びせられ
ザノンは眼を眩まされ、体勢を崩す。
長身のベディヴィアが、もたれこむようにザノンを地面に押し倒す。

 己の体に剣が絡まるのを畏れて、ザノンが剣を手放してしまったのは、動転故のことだろうか。

 ぬかるんだ地面をザノンが背骨で感じる時には
ベディヴィアの追撃の拳がザノンの顔に突き刺さっていた。

 両膝でザノンの二の腕を押さえつけると、
ベディヴィアはザノンの白い顔に立て続けに拳を叩き込む。
 ガツリという、骨と骨のぶつかる音、
バチリという、筋肉の衝突する音が上がる。

 突然のベディヴィアの暴挙に、その決闘に立ち会う者たちは
一拍、誰しもが反応できずに居た。

 現実に起こっている事をどう定義するか。
定義を必要とする、大部分の者は劣勢に立たされたベディヴィアが我を忘れて、
なりふり構わずに作法に反する卑怯な行いを為したと、
やっとの事で定義すると、今更の事の様にざわめく声を上げる。

 この声、やはり有象無象どもばかりだな、と
アレキサンダーが軽く首を振って失望を眼に顕す。

 「剣での決闘だろう、止めろ!」

 アッシュが思わず大声を上げるが、ベディヴィアには届かない。

 「止めさせてください、あれは決闘の作法ではありません!」

 ガーハートも、アレキサンダーに食って掛かるが、
アレキサンダーは睫を震わせてチラリとだけガーハートの必至の形相に視線を向けると
直ぐに視線をザノンとベディヴィアに戻す。

 「現実に起こっている事は全て自分に取って正しい事で無いと気が済みませんか?
こういうのも、有りでしょう。
止める権利など誰にもない。
取り決めを決めるのも、破るのも彼らの自由で
その隔絶は最初に彼らの合意の下で正しく始められた。 当事者は彼らです」

 「──日和見か、匹夫!止めろと言っている!」

 ガーハートの申し入れに冷然と断りを入れたアレキサンダーの態度に激昂した
ガーハートが声のトーンを上げて叫ぶ。

 アレキサンダーは表情を変えずに
「二人を止めたいなら命を懸けてお嬢さんが止めなさい」
とだけガーハートに告げる。

 何だと、とガーハートは息をまく。

 「貴方の声は決闘を汚す恨みを自分が背負う積りもないのを証明する、
小うるさいだけのただの言葉だと言っています。
興が殺げる、何も出来ないなら黙っていてくれませんか」

 「何をッ」

 アレキサンダーの物言いに、アレキサンダーの胸倉を掴もうと伸びたガーハートの腕が
逆にアレキサンダーに掴まれて、一瞬にアレキサンダーにねじ上げられる。

 ねじ上げて、すいとガーハートの背中に回りこむと、
アレキサンダーは憂鬱そうに目を半眼にして、
ガーハートの耳に顔を寄せ、フッと息を吹きかけて、囁く。

 「感情と意思の見分けがつかない
感情的な貴女にも判りやすく言いましょうか──。

お前のざまには美学がない。
お前みたいなのはとどのつまり、邪魔だ。
己が誇りを捧げ、裁きを決すると
彼らがそう決めたのだ。 彼らと言う人間になされた取り決めだ。
人間に土足で踏み込むな。
あそこは彼らの戦場だ。
踏み込むなら代価を払え。命の一つも賭けて見ろ。
手前は外野だろう。
どこからものをぬかしていやがる。
外野がガタガタ吐かそうって言うだけならまだいいが、
野次で結末をつくろうなんざ手前は何様だ。

あれなる行為を穢す事は女王陛下にも許されない。

あそこはお前ン家じゃねエし、あの少年の魂はお前のものじゃねエんだ。

戦場の縁に紛れ込むのはいいが、
彼らに向かってわめくだけしかできぬならよそでやりなさい、
善人ビッチ

 恋人に囁くような甘い声色を使って、
しかし、アレキサンダーは隔絶の言葉を容赦を一切加えずにガーハートの耳元に落とす。

 「──あれは私の教え子なんだッ…」

 ガーハートの背骨と腕の骨が軋み、ガーハートの声は振動となってアレキサンダーの骨に伝わる。

 「知っていますよ。だからあなたは止めようとしたのでしょう。
それは彼らという人間に対して横柄な振る舞いだとは思わないのですか。
貴女はそれでも騎士ですか」

 アレキサンダーの左手の人差し指が、ガーハートの首筋を緩やかに撫で、
アレキサンダーは、饒舌に言葉を紡ぐ。
甘い声を使い、しかし、同時に軽蔑の色を露骨に声に見せて。
よくよく見れば、アレキサンダーが極めているのはガーハートの指である。
それは、身体の末端の一部だけを極めて、そこから続く関節や、全身の動きを束縛する技術である。

ユンデルが全幅の信頼を置くだけのことはあって、
アレキサンダーは稀に見る器用者である事が表現されている態ではあった。

 彼らがそうしている間にも、ベディヴィアの鉄拳はザノンを仮借なく打つ。
 鼻に、頬に、眼窩に。
ベディヴィアの叩き落す右の拳骨がザノンの顔を執拗に打ち、
血飛沫がチラチラと舞い上がる。硬く、しかし、湿った音が鳴り渡る。
口を開くものもありはしない。

 走る拳の間隙から、ザノンの見開いたあの、恐ろしい眼の色を見た
ベディヴィアがぎくりと胸を高鳴らせ
ひたとザノンの左の掌はベディヴィアの腿に触れる。

 カッと眼を見開いたベディヴィアの背骨を冷たいものが走る。
 ザノンが親指を立ててツウとベディヴィアの太股に沿って掌を滑らせたのだ。
ベディヴィアが慌ててその手を払おうとするときには、
ザノンの親指はベディヴィアが右足に負った切創に突き刺さる。

親指の関節まで傷口に、一息に指をねじ込むと、ザノンは躊躇い無く親指を捻り、
その痛みはベディヴィアの痛覚を貫き、焼く

 軋む腕の痛みから逃れようとガーハートが背中を逸らし、
ああと漏らした悶絶の吐息の音が、
ベディヴィアのヅアーッという獣じみた絶叫にかき消される。

 アレキサンダーは、押し放すようにガーハートを解放した。

 解放されたガーハートがアレキサンダーを振り返ると、
アレキサンダーはぴしりと彼女の背後、ザノンとベディヴィアの方向を指差す。

 ベディヴィアは痛みに腰を浮かせ、
ザノンが掌底を彼の足と足の間にゴリと下から押し込んで、
続けて下がった彼の腰を、膝で裏側から打つ。

 声も上げられぬ種類の痛みに悶絶し、
身体の重心を制する事を放棄したベディヴィアを肘と膝で押しのけてから、
よろめきを見せてザノンは立ち上がり、うずくまるベディヴィアの顔を正面から
鞭の様な廻し蹴りで打ち、振りぬいた。

 ベディヴィアの首が衝撃によって運動し、身体は横合いに吹き飛ばされ、転倒する。

 ザノンの蹴り足は追撃の手を緩めず、むき出しになったベディヴィアの腹を打つ。

 幾度か蹴った所で、ザノンの足首がベディヴィアの右手に掴まれて、ザノンは引きずり倒される。

 ベディヴィアが、膝を笑わせながら、下腹をさすりつつ
足の傷を庇って中腰に立ち上がると、
ザノンの髪の毛を掴んで引きずり起こし、頭突きを見舞う。
 ベディヴィアはの顔は凄まじい形相だった。
ザノンの蹴りに拠ってその額の皮は裂け、鼻腔からは血を吹き
顔中血まみれの態である。その鬼気迫る表情のベディヴィアの眼には
執念の炎が燃え盛っていた。

 ベディヴィアの拳に執拗に打たれ、
別人の様に青く腫れ上がったザノンの顔にも
同じく、表皮と切った唇、鼻腔から血液が帯を引いて流れ
しかしその眼光はベディヴィアと同じく
衰える気配を見せない。

 凄惨極まる果し合いに、意思の表現に…
このままではどちらかの命が擦り切れるのは誰の眼にも明白だった。

 そうならねば決着を得ないという不文律。

 彼らが、そうしたという事実。

 そう決めたのだという、他者との隔絶。溝。

 しかし。

 彼らの世界を作るのが彼らという人間であれば──。

 それに関わり、革える手段を持つのも、
同じ命と他者とのつながりをを持つ、
人間であると言う事を、彼女は知っていた。

 「──あたしは…駄目だ」

 ネルが、小さく呟く。

 その声の響きに、何かを感じ取ったリブラがネルの方へ顔を向ける。

 ネルの横顔の赤い眼はザノンとベディヴィアの向こうの、
どこか遠くを見つめたまま、前に、一歩進んだ。

血を降らす竜巻に化生した二人は湿った大気に
互いの血煙をばら撒き、大気に拡散し、泳ぐそれは霧となる。

 二人の上げる声は、もはや獣の吼え声と相違ない。

 骨を鳴らし、筋肉は軋み、血を流す。
電体となった意思が互いの身体を流れるような錯覚がある。彼らの世界。
 ネルは、二人に向かって足早に歩を進め、その光景をしっかりと見据えていた。

 ザノンが、膝蹴りでベディヴィアの足の傷を打ち、ベディヴィアの姿勢が下がる。
ベディヴィアの下がった頭の、後頭部の辺りに手をかけて首相撲を仕掛けるとザノンは
膝蹴りを二度、三度とベディヴィアに叩き込む。

 その衝撃に、だらりと下がったままのベディヴィアの腕が泳ぎ、空中でがくがくと揺れる。

傷口からとめどなく流れる血が、それに合わせて雫を飛ばし、
辺りに血の赤色を撒き散らし、汚していく。

 もはや、ザノンを振りほどく事も出来なくなったか、
ベディヴィアが白眼を剥き、膝ががくりと下がるように見えたとき、
ネルが、ベディヴィアの名を呼び、鋭い声を上げる。

 「倒れるな」と。

 自分の名を呼ぶ声に反応したのか、身体をゆすって首相撲にかける
ザノンの腕を何とか振りほどいたベディヴィアの、傷を負った腕がザノンの首筋に絡まり、
次いで、ザノンの身体に寄りかかるようにベディヴィアがザノンに密着する。
ヒュウ、ゼイとベディヴィアの荒い呼吸の音が振動となってザノンに伝わる。
拳を作ったザノンが、その振動の源泉、
ベディヴィアの脇腹目掛けて数度鉤打ちを見舞う、
ドツッという重い音が何度も響き渡る。

 「今──ベディヴィアさんが挫折したら、
きっと、ザノン君は、自分の自由の中で──

自分を律していた自分を見失ってしまう。
ベディヴィアさん。あたし達の欲望の為に、ザノン君に勝って。
あなたが例えどれだけ無様でも、どれだけ無能でも、どれだけ無理であろうとも──
どれだけ傷つこうとも、必ず、元通りのザノン君をあたし達の傍に連れ戻して。
それは、この子をそちらにつれていった彼方の責任だから」

 ズルリという音が、どこかで鳴った様にザノンの感覚は感じ取る。

 ネルが何か言っている。
ザノンの意識が働いた時には、
ベディヴィアの右手が動き、ザノンの防護服のベルトをしっかりと握り締めていた。
 「酷い言い方だよね?憎んでくれていいよ。
今のあなたの感情はあたしには関わりのない事だもの。
けど──あたし達の友達を返してくれるなら、
その恩に報いたいと思っているし
対価として、きっとあなたの言う事を信じられると思える。
あたしはあなたの味方をしてもいい。
共に世界を生きていく人の一人だと認識するから。
だから、取引デモニック・トレードだ。
今この決闘であたしの騎士になれ。
負けることは、許さない──
お願いよ、ベディヴィア・チューナー」

 残る力を、いや、それ以上の力を発揮しているのか。ベディヴィアの拘束は
ザノンが拳を打ち込もうとも、身体を揺すろうともびくともしない。
ザノンは、ベディヴィアの顔を見上げる。
 ベディヴィアの瞳が、彼の眼の中に戻る。
そしてベディヴィアが歯を剥いて、痛みに擦れた声を、発する。

 「俺は──騎士だ」

 ネルは、強引にベディヴィアに関わった。
関わって、孤立したベディヴィアとザノンの繋がりを引き裂き、
そのバランスを崩し、ザノンをベディヴィアから孤立させる。
ザノンはその時自分が属する世界から対となるものを失い──
彼らの世界に落ちてくる。
ネルは直感を信じ、言葉を紡いだ。

 「騎士になることは負けない事だ。俺には守るものが、ある。
故に、己に拠って力を創造し戦い勝つ」

 言葉を取り戻したベディヴィアが、その言葉で誓う。

 それは、ザノンの耳にしか届かない程か細く、弱弱しい声だったが。
しかし、その振動は拡大し、影に眠っていたザノンの意識を充分すぎるほどに震わせる。

 アレキサンダーが、ベディヴィアの身体に、尋常ならざる力が走る気配を察し、
残念そうに肩を竦めて、しかし、この混沌を面白がってか苦笑する。

 「ちぇッ、どうやら決着してしまいます。
実際あんな風に開き直られたら悪態のつき様もありません。
あの子は優秀な姫様になりますよ、先生。
あなたの教え子には勿体無い図々しさだ。
しかし、身も蓋も無い言い方だ。
よほど世の中と言うのを良く知っている。
名前はなんと仰るのです、あの素敵な女性は」

 朦朧とする意識と、獣に還ったかのような高揚の中で、
しかし、ベディヴィアは誰とも知らない少女の騎士になる事を選び取り、
意識の後退と高揚とに打ち克ち、
ザノンの首筋に、剥いた牙を突き立てる。

 ザノンが悲鳴の様な短い絶叫を上げ、ベディヴィアは頭を引く。
どちらの血か判らぬ血液が、ベディヴィアの唾液に混じって空中に紅を引き、
次いで、ザノンの両脚がくるりと空中を掻いた。
ベディヴィアはベルトを掴んだ腕を捻って自分の体もろともザノンの身体を地面に叩きつけたのだ。
 完全に二人分の体重の乗り切った衝撃を背中に受けて、
ザノンは呼吸も出来ずに悶絶する。
 ベディヴィアにも、最早拳を振るう程の力は残ってはいない。

 呻き、血を吐き、
やがて震える身体を起こそうと互いの身体を掴んで、二人は足に力を込める。

 ザノンは、アイギスの胎内でエクスにかけられた言葉を思い出す。
エクスの面影と、アイギスのシルエットが彼の中で重なり、
ザノンはがくりと膝を折る。

 ばしッと水溜りの水が跳ねる音が耳元で鳴る。
 それは、自分の体が地面に倒れ伏した音だと、
ベディヴィアのブーツの爪先を視界に入れて、
ベディヴィアよりも先に自分が倒れた事をザノンは認識すると、
かすかにその向こうに自分を見るネルの赤い眼があるのを、彼は、見た。
 (ああ、そこに立っているのは、赤い眼と片二重の眼の、ネルだ)

 ザノンとネルの眼が合う。

 (ごめん。だけども、反省なんかしていない)

 ネルも、ザノンも、同じ言葉を心中に思い描く。

そしてザノンの、言葉を思い出せなくなるほど後退した
意識は、しかし、確かにある変化をし、
ザノンの内面は以前より深く融け、アイギスの中で出会ったザノンと出会い、少しだけ混ざり合う。

 (意思で結果を覆された。
さぁ、もう良いだろう。
再び僕の中に潜れ、僕の影)

 (意思は占えない。しかし、表現は出来る。
お前があれだけやったのに、俺はあいつの意思を折る事が出来なかったんだな。
これが、行為か。俺の影)

 (──そうだ。そう実感した。
その表現と行為の結果はどこまでも一個の本当で、
それはみんなの眼から見ても本当だ。
君の意思は、ベディヴィア卿の意思に──僕が確かに負けたんだ)

 (僕は俺はそれほど硬い意思なら、信じられると実感する)


 ザノンが倒れる様を見守るネルの慈しむ眼を見て
ザノンは変化した自分を認識し、意識を失った。

 全て一瞬の出来事だった。



 王都の近郊ながら、歴史的な賢人ムハン・マドが
啓示、神託を授かったとされる場所であるサムソ山脈は殆ど手付かずのままで自然が残っている。
その連山の中腹、どこか神秘の空気の漂う森の奥深くで。
ムハン・マドと彼に英知を授けた人物ジブ・リールの伝説を思い出したか、
エクスは雲の切れ目から覗く雨上がりの青空を見上げる。
見上げれば、同じ空の下に続く、どこかの光景が見える様な錯覚をエクスは抱いていた。
 山小屋の腋にどっしりと腰を下ろすエクスは姿勢を戻す。

 焚ッと気合を発し、エクスが鉈を振り下ろす。
 木の切り株の上で快音を立てて薪が真っ二つに割れる。

 「エクス殿ー、エクス殿ー。風呂はどこだったんです?」

 エクスが顔を起し、モノの声の出所に眼を向ける。

 見れば、兎二羽を片手に手を振るモノは
土ぼこりで顔を真っ黒にしているように見え、
その真っ黒な顔の所々が汗でテラテラと光っているようだった。

 エクスは、今カルマが身体を清めているとだけ答える。

 問われるエクスは、一足先に凝脂を落し体を清め、
モノとは系統の異なる修験者の服装に着替えた後である。

 「温泉が沸いているんでしょう?場所が判らんのです。
場所が判れば一緒に入っても構わんでしょう。
女同士ですもの」

 カツッと薪の側端に鉈を食い込ませてエクスが背筋を少し伸ばす。

 「カルマは拘らんと思うが。
いいっていうならいいんだろうな」

 エクスが意味深長にモノに問い、
使い古した獣皮の胸当てを切ってこさえた眼帯の位置を直す。

 「何です、物の怪でも出るとか言うのではないでしょうな」

 「物の怪より怖い姐さんのヤサだぜ、そんなもの近寄りもしねえよ」

 エクスが溜息混じりに答えると聞こえたよッと山小屋の裏から低いダミ声がエクスを叱りつける。

 「…マ、冗談はさておき。ここは熊撃ちの姐さんのヤサだ。現実問題、熊くらいなら出るかもしれんな」

 カコンと音をさせてエクスが地面に落ちた薪を手に取り、薪の山に三本、四本と投げ込む。

 「はぁ〜、マ、熊くらいなら別に。
に、しても。エクス殿が
山奥の熊撃ちの猟師と顔見知りとは意外といえば意外でした」

 彼らの会話にあるように、サムソ山脈に身を伏せた彼らは捜索の先遣隊をこの場所でやり過ごし、
離脱するに相応しいタイミングをはかっていた。

 この場所、というのはエクスを知る齢四十八になる猟師、イネウ・スピリの山の住まいである。

 冬を越すためにイネウには少々のたくわえが有り、また、人の住まいで有るから当然休息を取る事が出来る。

 しかし、山中に有って風呂に出くわす事が出来るとは思っても見なかったモノは
イネウに感謝を示す贈り物をすべく山を駆けて兎二羽を捕らえてきたというわけである。

山野の動物を狩ることに関しては素人のモノの仕事としては出来すぎと言うほどの結果と言えるだろう。

 エクスは鉈の柄の先端に両の掌を重ねるように載せて上体をそらしてモノを見る。

メーテに撃たれた事などなかったことの様に平気な顔をしている彼を見るに
自律外科魔装でも自分の体内に仕掛けてあるのかとモノは訝る。

 エクスの片眼はその疑念を捉えた様だったが、続くエクスの言葉はその疑念には触れられなかった。

 「そうね。何、王都から以前逃げた時に知ってる農家の伝で世話になってね。
姐さんからしたら破落戸の一人や二人の身の上なんぞどうってこたぁない。
俺だってたまに転がり込んでくるろくでなしの一人にすぎんさ。
ここでは一宿一飯の恩は雑用で返す約束って事よ。
…どれ、温泉だったな。獣道だが目印はない事もない。
近う寄れ。地図を描いてやろう」

 「鉈で描くのですか」

 「刃物で絵図を描いちゃいかんかね。こいつも人間の道具さ。使い方はいろいろだろう」  顔を下げ、地面の上の落ち葉を払い、エクスが地面を鉈で削って線を描く。
 山小屋の後ろから、赤毛の女性、
イネウの如何にも猟師という厳しい顔が覗いてエクスの背中に小さい子の方の着替えは、とダミ声で問うと、
エクスは掌をひらひらと振って特に持たせてはいないとジェスチャーで答える。

 「じゃ、その子に持たせてやるわえ。
なんにせよ防護服なんか着てうろうろしてたら怪しいし人目についてしょうがないわナ」

 「助かるぞイネウ」

 「あんたは何度言っても横柄な口の聞き方が治りゃしないねエ」

 「横柄だからネェ」

 イネウの太い眉がぴょんと跳ね上がり、
ぎょろりと大きな眼がエクスの背中を射つ、
獣の毛皮でこさえた肩掛けの埃を払うと続けてフフンと笑う。

 「自分の性格なんか自分で決められるもんかえ」

 イネウの言葉に、エクスは無言で肩を竦める。

エクスは地面に垂直に鉈を立てて地図を描き終えた事をモノに示すと
それで、とモノに場所の説明を始める。

 モノがイネウに兎を手渡して、地面の地図に眼をやる。

 イネウは兎を受け取って、肩に担ぐように掛ける。山小屋に戻ろうと踵を返したところで
不明瞭に「しかし、俺は決めてしまった」だとか
エクスが呟いたのが聞こえた気がして、イネウは振り向いたが
エクスはモノに説明を続けている。
風が何処かで鳴った音だったかと
イネウは得心して、分厚い毛皮の脛当ての位置を治すと
エクス達に背中を向けて歩き出した。