045.Shadow Run:25_Nobody_Gecko





 北の天にある星は死者の声を聞き、南の天にある星は生きる者の声を聞く──。

 所はジャッハ・ナンム寺院から下る有象無象の伽藍の一つ。
その中心に有る本堂の、木造の硬く冷たい床に座するラス・プラスは静かに呟いた。

 静謐な堂の中である。声はそこに漂い、松明の光の下、薄闇に溶けていく。
漂う言葉の残響を拾い、堂の奥に座する人物が口を開く。

 「貴君の歌う伝説でしょう、旅のお方」

 凛とした、穏やかな渓流の清浄を思わせる声である。
白無垢の法衣に身を包んだ人物、ラスと対峙して座する女性のものだ。

 半跏趺坐の姿勢のまま、ラスは胸の前に右の掌を当て、背筋を伸ばすと口上を述べるときの様に美しい声で言葉を紡ぐ。

 「そうです。古い伝説。願い、破れ、夢を見て死んでいったもの達の夢見た、理想の世界。その、物語。…一曲、吟じましょうか」

 女性は笑い声を乗せてうふふと小さく息を吐く。

 接するものの不快にならぬ慎みを湛えた穏やかな笑い声は、この佳人の年齢相応のものであろうか。

 「やめておきましょう。この身は精進潔斎し、山間の教えに順ずる事を決めた一個の小人のもの。
現世の光は、わたしには余りにも眩しい。光を見て、眼を囚われるわけには参りませぬ。
光。人の見る夢は、果たして世代を超え、受け継がれるのでしょうか・・・?」

 女性は口元に当てた手をすいと下げて、両の瞼を閉じたままの顔を起し、しかし、ラスの気配をしっかりと見据えるように姿勢を正す。

 この伽藍の山門の前に突如として姿を現し、訪れたラスは、当然この伽藍を守る行者に制止された。
知人も約束もないという話である。行者達に叩き殺されてもおかしくは無い状況に平然と飛び込んできたラスだが
本堂にいるこの女性が使いをやって彼を中に招き入れたのだ。

 その、齢は四五十になろうという白無垢に身を包んだ美しい女性は、ラスが聞けばジャッハ・ナンム寺院の司祭の一人であるという。

盲目らしきこの女性は、堂の中に居ながらにして、ラスの気配に秘めた古い魔装の匂いを嗅ぎ取り…
彼女は問答の中で、ラスもまた、その膨大な知力と好奇心によって、その類稀な感覚に目覚めた彼女の存在と
彼女が接触を図ろうと目論む相手の事を知り、その人物の情報と、ムハン・マドの閉じた世界、山岳寺院の歴史の情報を交換する為に…
情報共有の為に、訪れた事を知った。

 「現実は受け継がれ。しかし、夢も密かに続いていきます。
だから、叶う筈はありません。叶えるべき夢を失くさない為に人間は、社会は確固たる確信をもって最適化をします。
それが叶う瞬間がやってくるとするならば人間はそれを捨てて、次の方法を探さないとなりません」

 「不自由です事」

 「光に眼を囚われる分、それが見える人はあなたよりずっと、本当の光から遠い。

盲いた貴方ほどには物事の本質に、切実に触れられていません。
光を失った二つの天の二つの星。
それらが自らの身体を焼いて見せる光。始動感覚と残響知覚、それらが結びついた最も強い常世の光、共感能力を発揮した時
次の光の尻尾を人間は見つける──そう思いたいものですが」

 「その二つが出会う座標で…北の天と南の天が重なる、そのねじれを通じて。
狭間にいる最も尊い唯一の人を救い出すという願いがわたしどもにはあります。
その時の為にムハン・マドと私達は生まれ、ナイトガルドから拒まれ
そして、ここにいます」

 ラスは、金属製のスキットルボトルをねじ込んだ。自らのジャケットシャツの、フリンジの付いた右の胸ポケットを指で弾く。
コォンと異質な音が、寺院の堂に生まれ、響き渡る。

 「調和。人間の加工した滑らかなものでなくては、こうも聞き易い音は出ますまい。
…重なっちゃ成りません。飽くまでも、絶対の壁を破らずに、しかし共にあること。
対になるものが一つになって、次の一つを残さずに、ただ死ぬ事。それはこの世の終わりです。
この世が終わっちまったら、わたしも手を震わせて脂汗をかいて、酒を飲んで、酒に溺れる恥ずかしい自分を忘れようと躍起になる事も
できなくなります。
そいつは、困る。
理想的に完成して、バイ菌のいなくなった世界は、他の生き物も生きられない世界です」

 ラスは、半跏趺坐の脚を崩し、胸ポケットのスキットルボトルを取り出すと遠慮もなくグイと中身を煽る。

 「山から下りて一年程と仰いました。その一年で随分とすれなさいましたね。
人の社会は、抗体をもたなければ刺激が多いとは思いますが…」

 ッアーッ、と焼ける吐息をつくラスを見守って、女性は飽くまで優しい声で言う。
その言葉から覗く、この女性の見識の深さ。
この女性がラスの正体をどこまで見通しているのか、ラスにも判らない。
故に、ラスは言葉を以ってその器を計ろうとした。

 彼女もまた、ラスの好奇心の寄せられる対象だ。

 「はい、人間の作った欲と得に溺れました。
感覚というのを伴う刺激と、蓄積されるその記憶は
清潔な理屈だけの世界とは違って完璧に行かない。
エラーの排除とエラーの繰り返し…。
だから病み付きになります。その中に、音楽も変わらずにあったわけで…
音楽を聴かなかった貴女は、賢明です。いじらしくもありますが」

 彼女の問いに、ラスの眼は油断無くギラリと光る。
問う事は、知ろうとする事。
彼女には人の世を守るシツダや、ヨシュアに類する力は無い…と、ラスは、見た。

ムハン・マドの教え、知恵と、身体感覚の一部の欠落によるほかの感覚の鋭敏特化が
神秘にも見える思考能力と鋭敏すぎる感覚を与えているのだろうか。

 「貴方の生き方とて、悪い事はありません。鮮烈に生きる事は芸術を色鮮やかにします。
そしてその色は、人の大きな慰めになることでしょう」

 そうした観察をする眼の色の作る、異様な殺気に気づいたのか。
女性は心臓を守る様に左手を襟に当てて
ラスの自嘲を慰める言葉を発する。

 「…物語の様に。芸術の様に愚直に生きる彼ら。
ある一点に向かって鮮やかに生き、そして、極まったものは狭間の壁に行き着く、彼らはそこにあるものを証明するでしょう」

 立ち入りを拒まれたかとラスは軽く溜息をついて、彼女の意識を言葉に向けさせる。
彼ら。ラスの言う彼らの内の一人が、彼女がこれから見えるであろう男のことだ。

 「そして、太陽は、天は、落ちるのでしょうか」

 即座に、女性は問う。
ほうとラスは心中に嘆息した。
今まで厳かに、慎み深く問答に及んでいた女性が苦と軽く前のめりになり、
その切実の覗く声を発したからだ。

 「天は揺れ…しかし、落ちるのは、星、でしょう。
私は、神様でも預言者でもない。…すべて、私の憶測ですがね。

焼けて、空から落ちる。自らの体から発する光の中で太陽を見つけて、それを守る為に落ちるでしょう。
考えてみてください、女王シヲン・ミドガルドの有する共有能力でさえ、過去の自らのローカルの記憶を参照できるのみです。
不特定多数の人間とのボーダーレスな意識の共有など、人の身体で耐えられる能力ではありません。
生身で真空に、放射線の嵐に飛び込むようなものです。
──天に望みを云う無かれ。われら太陽に祈るべし──。
われわれには必要ですが天は太陽の為だけにあるわけではない…という話は
天はわれわれに別に関心を持っていない。哀れな我々を愛してくれているのは
見えるように光っている天体だけだと…
ムハン・マドの教えの原理原則にある筈ですが」

 ラスは眼を細めて、たしなめるように言う。不実そのものであるかのような彼に似つかわしくない声の色である。
その声の色にはっとした司祭は、襟にあてがった左手を軽く握り、自らを戒めるように上体を退く…。

 「…未だ、不肖の尼僧でございます。俗世、残して来た子の生きる世界に未練を残しています。
あの子の生きる世界に、太陽よ、天よ。あらせられますようにと…」



 「おーい、おい!子供がさぁ、紛れ込んでるんだ!」

 基地の外れ、チェスピの都市部から入り込んだ仮の民間人保護区域から、また少々外れた場所で、
戦闘の損耗から単独で離脱してきたドルガノウを背負うフラ・ベルジャの騎士は
少女らしき人物を小脇に抱えて手を振る歩兵が居るのを確認した。
 「参ったな…!」

 溜息をつきながらも、フラ・ベルジャの騎士は歩兵の前まで騎体を進め、コクピットハッチを展開する。

 「この辺でちょろちょろしてたら流れ弾が飛んでこないとも限らんぞ!
あっちのほうで我がほうの戦力と、ビナー勢のアホどもが衝突しているところだ!
おたく、仲間はどうした!」

 見れば、歩兵は確かにスラス勢の歩兵戦力の物と思しきイングニシアを貼り付けたフリッツヘルムを目深に被っている。

 「どうもこうもない!この子が逃げるんでやっと追いついたんだ!やたらと逃げ回るんで皆ばらばらだよ!」

 肩を大きく竦める歩兵の言い草に、フラ・ベルジャの騎士は呆れた顔で溜息をついて、
中年の、人の良さそうな騎士は顎鬚を揺らす。

 「ちぇッ、勘弁してくれよ…おたくも騎士ならもうちょっと集団行動の原理原則ってやつをだな」

 「いや、おいさん、お叱りなら後で幾らでも聞くから、
この子を乗せてやってくれー!少なくとも生身でふらふらしているよりはいくらかはマシなはずだ!」

 騎士の言葉を遮って声を上げると、歩兵は開いた右手を上に上げて催促するようにばたばたと前後に揺らす。
歩兵に説教をくれてやる前に、歩兵の言うようにするのが正論だと、騎士は言葉を飲み込む。

 「仕方ないな…今、膝をつかせるから!」

 周囲を警戒して、フリッツヘルムの歩兵は少女を脇から下ろして伏せさせると拳銃を構えて辺りを警戒する。

 ゴンと大気を鳴動させて、フラ・ベルジャが巨体の膝をつく。

その巨体の運動するさまは今更ながら壮観であるし、少々の敵ならば寄せ付けもしないであろう力強さ、圧倒的な威容は有している。

風さえ起こるその威容に気圧されてか、歩兵はぴゅうと口笛を一つ鳴らして、拳銃のトリガーガードに指を引っ掛けてくるりと廻す。

 「よーし、いいぞ!君!立ち上がっ」

 銃声が、二度鳴る。
コクピットハッチから身を乗り出したフラ・ベルジャの騎士の眉間に穴が開いて、言葉は途中で永遠と言う空中に投げ出される。

鼻腔からつと血を流して、騎体から乗り出そうとした騎士の体は、
コクピットハッチから転び落ちて、ぐしゃっと言う頭蓋骨の砕ける音を響き渡らせた。
歩兵が、弄んでいた拳銃を構え、撃ったのだ。

 「はぁ、だっるぃなあ…歩兵とフラベルジャと同じパターンで騙されて。子供には弱いねぇ」

 フリッツ・ヘルムを大儀そうに脱ぎ捨てると、歩兵は左手で少女の手を取ってその身体を起こす。
身体を起こした少女の年のころは、十五六か。王都風の洒落たレースの目立つキャミソールにフードつき肩掛けのついた薄手の上着を羽織った黒髪の少女だ。
その、何処にでもいる少女の眼は中心に据わり、舌をもつれさせて涎を口の端から垂れ流している。
歩兵はその、理性を忘れ去ったような少女の顔に一瞬眼を凝らすと、へっへと満足そうに笑う。

 「変な顔…まぁ、大丈夫、かな?伏せろって言われて伏せるくらいには聞こえるみたいだし。
ほら、君は今度はあっちだよ?これあげるから」

 顔を起した少女の口の中に、歩兵は強引にグローブをねじ込む。
グローブの指から、錠剤を口の中に送り込むと歩兵はその手で基地中心、転送設備の方角をを指差す。

 「言う事聞いたらもっと沢山あげるから。お願いしますねー」

 恍惚とした表情のまま、口の中の錠剤を飴の様にねぶる少女に、二度同じ事を言い含めると
歩兵は、グローブを外して脇に投げ捨てて…
フラ・ベルジャを見上げる。

 「ここからが骨だね、
スラス勢のフラ・ベルジャは拾った…ライフルもある…
まぁ…僕がやるしかないんだよねえ位置的にはさ…。
割り食ったなぁ、イヤだなぁ。
でもノーバさん全部僕のせいにしかねないしなぁ。あーあ…」

 愚痴らしきものを呟くと、彼は横に棒立ちになった少女の顔面を左手の握りこぶしで張って
前歯を圧し折ると薬が欲しいなら早く行ってくださいよクズと笑いながら言った。

 彼の名はサーフェス・ゲッコウ。
捨てられる痛みを想像する機能を後退させた、集団に紛れる凡人の天才である。

 「ビナーが殺されてるって?」

 弾薬補充と、損耗部の簡易交換、それと防衛位置シフトの為に基地転送設備の正門前でバスタのダィンスレー隊と合流し、
膝をついた重装フラ・ベルジャのコクピットハッチを展開し、
車両から派遣されたクルーと会話しながら、スラスはバリバリとジャーキーを齧る。

 「はい、実質的に敵勢力はリーダー不在の筈なのですが…」

 コンソールを覗き込んで、スレイプニルからのシステム情報に眼をやるとスラスは訝しそうに唸って、ジャーキーの最後の一口を口の中に放り込む。

 「混乱から伝達系が麻痺してるって動きじゃないよなこれ。
連合と、基地の中間にどんどん集まっていってるように見えるが…
逃げるにしても戦うにしてもまるでメリットが無い。
こいつら。わざとやってるんじゃなければ凡そ考えられん
ビナーをやったのもどこの馬の骨ともわからんか」

 その丸太の様な腕を組んで、シートにもたれかかると思案を巡らせる様にスラスはウーンと唸る。

 「ヤだねぇ」

 「ですね。何か企んでいるのは察しがつきますが何せ敵の数が圧倒的少数すぎてゲリラ戦をやられて…
今度は密集しだすんじゃ…あ、換装おわりました。重機さげまーす」

 あいよっと騎士に右手を上げて答えると、スラスは尚も思案をめぐらせて唸る。

 「俺ならどうすっかねぇ…いやぁ、何せ時間が無さ過ぎる。兎に角転送を終えて拉致被害者を保護せんと格好もつかんが、不気味だ」

 そこへ、バスタ・ホーネットの黄色のダィンスレーに向けた通信が聞こえてくる。
重機車両が轟音を立てて下がっていく中、スラスはハタと意を止めて上体を乗り出す。

 「バスタ卿、民間人が何人も…基地内の保護区域を脱出してこちらに向かっています!」

 部下の騎士の報告を聞いて、スラス隊と合流して、転送設備の正門を守るダィンスレーのバスタは溜息をつく。

 「保護して…ええと、スレイプニルは流石にまずいし…
転送設備の空きブロックまで避難させて差し上げなさい。そこなら歩兵騎士の保護が受けられます」

 「いや…しかしですね…」

 スラスは、更に身を乗り出してバスタの通信相手に助け舟を出そうとするがバスタは早口に相手を詰る詰る。

 「パープリン!たわけ!武術を修める事も、戦闘魔装鎧を駆る事もせず、その分社会と都市に尽くしてきたひとがたですよ!
生命の危機にはわれわれより直感的に敏感です!
基地居住ブロック保護区域周辺の敵を一掃出来ない能無しどもの守りでは不安なのでしょう!怖くも逃げてきたくもなりますわ!
この無神経!雑魚!お前の母君でべそですわ!」

 口を尽くして相手を責めるバスタの言葉に、スラスはようやっとの事で言葉をねじこむ。

 「あー…ちょいと」

 バスタの通信相手はこれ幸いと、聞こえよがしにはいなんでしょうかスラス卿おと大声を張り上げる。

 「念には念でさ、もう転送設備はアイドリング状態だし…歩兵に保護してもらって、
Uターンして貰おうか…座標は判る?」

 「散らばってるもので…人手が足りません」

 「魔装鎧は使いたくねぇやなぁ」

 スラスがそこまで言って、騎士の対話の相手が完全にスラスにシフトしたところで、
バスタが不貞腐れてダィンスレーの膝をつかせる。

 「魔装鎧を温存しておくなら今の内にわたくしのダィンスレーにも原動力用ベルゼビウム・インゴットの補充!
重機、下げないで下さる!?」

 轟音の中で金きり声を重機車両のクルーに張り上げたところで、
バスタはあらッと声を上げる。

 なんだと外を見渡すスラスの眼には、ダィンスレーの向こうに走っていくバスタの姿が認められた。

 「その、民間人ですわ!」

 はぁッ!?と声を荒げて、スラスは望遠映像を確認する。
両腕を戯れに広げて駆けるバスタの目指す先、
確かにフェンスの向こうを右往左往する幾つかの人影が認められる…。

 しかし、スラスはその気配をそのまま疑いなくバスタの言葉の通りに認められる人間ではない。

 「俺が敵なら…?}

 暗い世界を渡ってきた彼は、はっとしたように…追い詰められた人間の取る、最も、陰湿な──しかし、効果的な方法に思い当たる。

 「送り込んだ捨て駒に自爆でも…させようとかいう魂胆ならどうだ…!?」

 北東からチェスピに進入した連合騎士団はアルゴンキンの進入までを終え、前衛部隊も厚くなって来た支援の甲斐もあって
チェスピ内で行動を起こした反抗分子を制圧しつつ着々と脚を進め、
基地の間際まで道路の封鎖と制圧を終えていた。

 退屈を覚えたユンデルが遂にバジユラー・アスラで敵性勢力との衝突の鎮圧に赴き
自慢のバックジョイントアームに拠って
フラ・ベルジャとクリスナを派手に血祭りに上げて、基地へ向かっていたチェスピの民衆も
その血祭りの威容に振り向かされ、連合騎士団の保護を求めて向きを変え
人の流れは二分される。

 後方支援に当たる車両を警護する学生班も、その光景を、バッソウの中から遠巻きに眺めながら安堵の様なものを胸に沈殿させ始める。

 「連合の戦力と、小都市の戦力じゃそりゃ…比べるべくも無いよな」

 「今更言う事じゃないよ、でも…そうだね」

 リブラの声に、ネルが同調する。

 コヨーテも、歩兵部隊も相当前進し、空間は瞬く間に制圧されていく。
どう言い繕おうと、自分達はこの、恐ろしい勢いで侵食を進めていく生き物のような軍隊で
都市を鉄火に拠って今まさに蹂躙している怪物の
その、一部なのだ。
そうした恐れの様なものは彼らの胸中にもつむじ風を起こす。

 「ネル。俺さ…手を汚して、怖くなった。
やっぱり、ここの人達だって、巻き込まれて、何人も…」

 「迷ってて解決する事じゃない…」

 リブラは、恐れをネルに伝染させようと、共感を得ようとする。
朴念仁のアッシュや、ポイゾとの戦闘でその才覚を見せ、
対峙した騎士を躊躇無く斬り殺した、生まれ付いての殺し屋に思えるザノンにはそのささくれが立つような恐怖はわかるまいと。
誰とも知らぬ人を殺し、その怨念が自らにいつ報復するかも判らない。そうしたものを背負う。そうされても仕方の無い理由、感情、怨念を背負う。

 その重さは、リブラの繊細な心には荷が勝ちすぎているのかもしれない。
ネルは、リブラの恐怖を理解し、そこに眼を向ける。
 その、眼を離した瞬間に…ザノンのバッソウTSの反応が一瞬、コンソール上の計器の上で凍りつく。

 ザノンは、空気の流動する音にノイズの様なものが混じるのを感じた。
気付けば、左眼が、囁くように疼いでいる。

 ある現象の前兆。いつ到来するかわからないそれを、ザノンも把握し始めていた。

 絶命せんとするイブや、ポイゾの最期にその焼け付く生命の声を感じ取ったその感覚は今はずっと強く、確信と共に彼の中にある。

 そして、その痛みはザノンの思考をこじ開けるように覚醒させて。

 ある異質なものをその意識の中に無理やり注入し始める。

声。いいや、声と言うには余りにも膨大で…
膨大であるが故に無視できない振動となったその総量は、漠然として、飽くまでも巨大なものだ。

溺れるほどに膨大なその情報の海の前に、ザノンは没入せざるを得なくなる。

五感の拾う情報をはるかに越えるその情報の総量の前には
彼の身体感覚など、砂山の砂粒に過ぎない──。

 心臓の音を掻き消すようなその巨大な振動は、全てザノンの意識の上に興ったものである。
だが、それは実際にそれが現象として起こっているのと大差ないという錯覚をさえザノンは抱く。

ポイゾの声を聞いた時に一瞬感じた感覚──
自らが超越者になったかのようなその感覚は、その現象の恐ろしさにザノンは身の毛を粟立たせ
そして彼は、コンソールに胃液を吐き戻す。

びぢぃっという湿った音が、閉じた空間で反響して無理やり臓腑から排出された穢れが褐色の粘液となってコンソールを汚し
人間の穢れそのものであるかのような熱と匂いが立ち上ってザノンは何度もむせる。

「かぁゥ…」

 粘液の残滓は喉に絡みつき。しかし、その穢れの齎す音と、匂いとに引っ掛かり、
それに拠って彼は彼自身の感覚と意識とを取り戻し、現実世界へと浮上する。
深海の様な情報を掻き分けて。

 ザノンの安堵らしきものは凝固を始めずに、熱に拠って溶解していく。そして彼は、その奥に隠れていた光景を、ある確信を持って、見る。
バイザーの下、左の頬が、バイザーの下の光を僅かに反射して山吹色に光る。

 得た確信を人に伝える…物質的な根拠を説明する言葉をザノンは見つけられない。

 (幻覚、幻聴ではない…)

 初めから勝つつもりが無い者がいるとする。最悪の戦い方で、最悪の負け方をするだけして、
そしてその混乱の中で、自分の命だけを拾おうとする人間が居る。
ザノンは、消耗、振動と痛みの中で、それらを今、教えられた。
いいや、その声…音を、拾った。
露頭した石の中から、何かの原石を見つけるように。

 「どうしようもない…」

 ザノンが、口の中に残った苦い液体をコクピットの中に吐き捨てて、呻く。

 しかし、言葉の通りに絶望に沈めないのが、彼だ。

彼の声を、バッソウGFのアッシュが拾う。
 「ザノン!何かあったのか?」

 先ほどの事もある。
アッシュは直感的に、その声の色にはずっと深い海の底から響いてくるような
不気味な響きがあるのを知覚していて、ザノンを呼ぶ声は最早怒鳴り声に近いものだった。

 「こんな膨大な…
僕一人が、それを知って!
なんで、僕なんだ!
よりによって、僕に…この状況を、指くわえてみていろっていうのか…!」

 ザノンは、アッシュの声など聞こえないようにその葛藤を零す。

 バッソウTSの眼の光が消えるのを、ネルはコクピットの中から目の当たりにした。

 「TS…ザノン、お前、また!」

 リブラが、アッシュ、ネルに遅れて計器の異常に気付く。
計器の上では反応が無いのに、通信が漏れ聞こえる異常。
 それは、ザノンがポイゾを倒したあの時と同じ反応である事にとリブラは、直ぐに気付いた。

 「できるわけ、ねえんだよ…失わせてしまうのが、なによりも怖いから、僕はアイギスに呼ばれている!それにつけこまれて!」

 「ッおい!」

 ザノンを、尖った声でネルが呼ぶ。喪失の予感から。

 ネルの言葉に答えるように、バッソウの眼に光が灯る。

 「例えば、音。そこから都合のいいサウンドの欠片を拾って。
…人は、音楽にする。
耳を傾ければ、世界には音が溢れている。
満ちている。意思のかけらの様に。
閉じていたものが開かされる時、
自己も、この、意思の欠片でつくられていた意思とすれば…」

 その中に居るはずのザノンの言葉は…正体の無い、彼の胸中の、意思の欠片か。

 ザノンのバッソウが、歩みだす。

 先ほどの事も有る、僚友に何の説明もせずに走るのかとザノンは一瞬逡巡したが──

もう遅い。
もう遅い運命を力づくで変える為に、彼は行かねばならない。
言葉で合理的に説明する時間も、物証もない。

 「自我は一部で、自己の全部じゃない。意思よ、【その】意思の望むように…しよう!」

 「TSが三次元戦闘モードを起動している」

 学生班の騎体を管理するスレイプニルのオペレーターの言葉よりも早く
配下の騎体の挙動の不振な事に気付いたガーハートが貴様ッという金切り声を上げた。

 バッソウTSの周囲の粉塵がふわりと巻き上がる。

 「…指揮官権限でバッソウTSを強制停止させます、ジョン・バッフ卿!」

 「僕ももう何度も実行しました!…しかし、受け付けません!」

 ガーハートに応ずるジョンの声は明らかに動揺している、と見えた。

 「何でよ!?」

 言いながら、ガーハートも自らのフラ・ベルジャのシステムから学生班を繋ぐネットワークを通じて
ザノンのバッソウTSに強制停止の命令を執行するが
『nevar』というエラー表示の前に、執行を遮られたのを察知して
コンソールの石板を握りこぶしで思い切り殴る。

 「エラーログにクソでも詰まってるのか!neverだろうが!言う事聞けよコン畜生が!」

 「畜生と言っても…魔装鎧は、命有るものではありません」

 「ザノン・シール!」

 「生きている者が、魔装鎧を通じて僕に命じます…僕は、呼ばれたからには行かねばなりません。
僕の意思を、魔装は実行します」

 「魔装鎧と云ったな、バッソウか!」

 怒りに任せて、ワケのわからないままガーハートは時間稼ぎに意味の無い問いを発する。
彼女にとってはそれほどの意味合いの問いだったが…
ザノンに取っては、違った。

 「いいえ、アイギスです」

 「アイギス!?お前の右手の名前か!」

 予想をしない答え、ザノンの口から薮蛇に飛び出した言葉の意味を探して、ガーハートは怯む。

 「そうであれば、どれほど良かったか。アイギスは僕の願いを自力で叶えさせる為に
声…いや、音を聞かせます」

 「何の音だ!センズリのし過ぎで馬鹿になったか貴様ァ!」

 人差し指の背を唇に当てて、ザノンは、バッソウの胎内で言葉を思案する。

 「…生きているもの全ての、意識の内に起こる音です。言語を越えた」

 「ザノン・シール!!」

 問答の横合いから。ネルが割って入る。
ネルのバッソウRCは地面から脚を離して浮き上がったバッソウを撃つ事も辞さずと云った構えであるが…。

 「ごめん。僕は…君達と一緒に戦いたい。戦って貰いたい。
けれど、時間が無さ過ぎる。もう、始まってしまうんだ」

 「な、何…殊勝な事言ったって」

 ベディヴィアとの決闘や、ポイゾの時とは異なる…ザノンのフレバーを残した優しい言葉に。声の色に。
ネルはその正体を探そうとする。

 その、一瞬軸を見失ったネルの胸中の高鳴りとぶれを狙うかのように、
一つ、火柱が基地の方向に上がるのをその場に居るものたちは見た。
…いいや、次々と、爆発兵器のそれを伴う異様な火柱が上がっている!


 「イーッ、ハーッ…ホウッ!」

 奇声を上げる禁騎士の周囲に浮かぶ鬼火の様な火の玉が光の尾を引いて
水面の上を走る。
波の影がゆらりと乱れる暖かな水面にその光を反射させる鬼火らしきものの、明らかな橙色は五つか六つ。
その鬼火の走る先で、人影がしなやかに跳ね、水の中に潜った。

 腰まで熱い水に浸かった禁騎士は、それを見て鬼火を追いかけるように走る。

 その動きには、火の息には、前に逃れようとするのような焦燥が映っていた。

 滑るように空中を走った鬼火は、次々と水面に落着し
水面に触れたそれは爆発でも起こしたのか水柱を上げてその飛沫と湯気とが走る禁騎士の姿を隠す。
 だが、水面の下の影は、水上の騒乱に惑わされて禁騎士の脚を見失ってはいない。
巧みに水中で身体を捌き、水上の鬼火の起こす爆発の様な衝撃の影響を免れていた影の持ち主は
武装修道院のモノ・アナンダだ。

 禁騎士の発動させた魔法はフラッシュライト。
火の玉に小爆発を起こさせて目標をその閃光と衝撃に拠って無力化する魔法だ。
最も、禁騎士の使ったフラッシュライトは、
最新の個人携行魔装の相次ぐ小型化の成功によって、
従来のモデルの魔装と比較して威力を高められている。
(実用とフィードバックの総量の少なさから、不安定な部分が残っているのは否めないが)
直撃すれば、身体の末端位は難なく吹き飛ばすとか、焼き切る様な代物だ。

 水中の影がその身体を起こしながら、伸び上がるような貫手を繰り出す。
 騎士は身体を逸らして貫手をかわすが、モノは貫手を繰り出した右腕で騎士の首を薙ぎ
同じく前に出した右脚で騎士の左足を刈り払う。
冠靴倒と呼ばれる、武装修道院独特の技術の一つである。

 モノの一糸纏わぬ白い胴体が、力強く捻れる。
ハイーッ、と気合一閃、引き倒される禁騎士はモノの剛拳に顎を打たれ
それと同じくらい豪快な物音を上げて水柱を上げる。

 ぼあッと大声を上げて失神した禁騎士の体は、仰向けになってやがて水面にぷかりと浮かび上がる。

 どうした事か、モノはそれを見届けると自分もへたり込むように胸まで温泉の中に身体を沈める。

 「いやさ」

 音も無くモノの背後に立ったカルマを正視できず、モノは顔を舌に向けたまま呟く。

 「折角だし、命は拾ってもいいんじゃねえかなーって拙僧は思うんだ」

 カルマに、今倒した相手の助命を願うモノの眼には、何か光るものが有った。
モノの肩は、小さく震えている。

 カルマは、ガチリと音をさせて片手で頭部保護具を自らの頭部に嵌め、ついで中途半端にはまっていた左脚を腰の接合部に固定しなおして。

カルマはモノの背中にそっと右手の義手をあてがう。
モノの背筋はその冷たい感覚に小さく跳ね、カタカタと言う暖かな震えがカルマの義手の触覚を伝わって、
カルマに、不思議な感覚を伝える。恐れか。哀れみと…悲しみの入り混じった複雑な振動…。

 ──哀れみ?誰の?私への?──

 「殺さないのか」

 「うん…うん…だってさ、こいつは…逃げなかったんだ。私達の前に立ち塞がった禁騎士が
半分以上逃げたあれを見て…こいつは、逃げなかったんだよ。仲間の逃げ道を作ろうとしたんだ。
私だったら、逃げている…!いいや、今…逃げ出したいくらいなんだ」

 モノほどの豪の者が、そう言う程に衰弱する理由。それはその場所にあった。
禁騎士…例えばバツケの使った戦斧の様に、彼らは人間には従来携行できない出力の魔装を携行している場合がある。
これらの兵器は一応の一次試験を終え、禁騎士の手に拠って実験とフィードバックをされている
新鋭魔装兵器と言えるものだ。

 それすらも、玩具と変わらない程の魔装が、存在する。
モノは今、それを眼前で見た。

 ぷかぷかと無防備な様を晒す、失神した禁騎士の横に音も無く流れ着くものがある。

それにちらと眼をやってモノはウッウッと呻き、眼を逸らす。

 カルマの力は、レドが恐れるとおり。エクスが魔装の集大成だと言う様に絶大なものだった。

何かの間違いで、魔装鎧が人間のサイズになったのではないか。モノの心にそんな疑問さえ芽生えた。
 群れとなって去来する猟犬に対峙したモノはその腕の魔装から発する魔法で超高温の空間を設置し、
アンチエレメントによる特定空間の崩壊と、その為に発せられる超高熱。
本来的な使用法ではないが…兎に角、その魔法は、結果
一瞬で四五人の命を焼き切った。
 その魔法の恐ろしさを、魔装知識でモノは知っている。

魔装鎧といえど出力を誤れば都市の一区画くらいは吹き飛ばしてしまうような代物だ…。
副次的にではあるが、バニシング・レイに匹敵する魔法となりうる、が。
その為に設計された魔法で無いそれは、そもそも魔法の射程は従来コントロールできない筈で
精々自爆になるのが関の山という概念の物であった。モノの知識ではその筈だ。

 モノとカルマの背後…その、魔法に拠って温泉の岸がクレーターの様に綺麗に削り取られた場所から流れ着いたそれは。

もはや、身体を何処にも見つけられない禁騎士の一人の右手だった。
腕の骨も露わに、手だけをこの世の痕跡に残した禁騎士の屍。

 「人間が殺さないと言うなら、それが私の殺さない理由になる。
あなたが逃げ出したら、私に下される命令はなくなってしまう」

 (この言い様。王都は、感情や、心までをこの子から、取り去ったのか)

 この、あまりにも無垢な。
手足も、五感も失って生まれてきた子供に…その絶大すぎる力を背負わせた王都の闇に
モノは心の底から恐怖を覚えた。

 しかし、彼女は逃げ出せない。いいや、カルマをここに一人にして逃げ出さない。
その、モノという人物の現実、心象を確認させたのは、
何処からか聞こえ来て彼女を駆り立ての恐怖から辛うじて引き戻した、錫杖の鈴の音だった。

 その鈴の音をずっと遠くで聞いていたラスは、去らんとする伽藍の山門を振り返る。

 「モデウス・ブローバが居なければ彼女が光を失う事も、この寺院で出家する事もなかった。
親を奪われたシャックスがひねくれる代わりに、盲いた眼で、彼女は異世界の光を見つける。
異世界の光は…断絶した過去と未来を繋げて…」

 はふっと笑って、ラスはスキットルボトルを煽って鍔広の帽子を目深に被る。
ジャケットシャツの上にはたんまり綿の入ったコートにガチガチに足元を固めた、丈の低い靴。
彼はこの山を歩いて下る。その筈だ。

 「きりが無いくらい面白いな、人間達の持つ物語。一人二人のだけでこれなんだから、全く溜まったものじゃない」

 弦の一本切れたままのリラも忘れずに騎士団の横流し品の歩併用の背嚢に突っ込んでいる。
口の端を拭うと彼は、陽気に口笛を吹き出してその音は木々に美しく木霊する。

 「俺は、おまえたちが直面する、その終末の美しい音楽を表現せずにはいられない。
人間達よ、お前たちは終末の只中にあって、俺の音楽を拾えるだろうか?
そこの所には、非常に興味が有る。
さァ、先ずは、テアマトウのセロ弾きだ。
…俺が行くまで中毒で死ぬんじゃねえぞ、ジャンキー・ゴーシ」

 ラスは、神ではない。しかし、人間の外に現れるものすべてを知っている。断じてそれだけは言っておこう。